Loading...
Loading...

戦争が激しくなった、昭和19年頃、 田舎に親類が無い家の、小学校の五年生と六年生の子供達は学童疎開として、学校の教師の引率で、子供だけ田舎に避難した。私はまだ五年生にもなっていなかったが、兄がが対象となっていたため、一緒に伊豆温泉に疎開した。
伊豆の疎開先は旅館だった。その向かいの幼稚園から、忘れもしない、三月十日の東京大空襲が見えた。はるか100km先の伊豆から見えたのだから、それだけ大きな空襲だったのだ。
しかしその後すぐ、伊豆は毎日、東京空襲のためのアメリカ軍の飛行機が行き交っており、この場所も駄目だということになり、盛岡に移動した。それは大変な旅だった。しかし私たちが盛岡駅に着いた時、B29が、その先の釜石の爆撃の帰りに、飛行機を軽くするために、残った爆弾を落としていった後だった。駅の近辺にも、その爆撃の煙が残っていた。それじゃあ盛岡も駄目だということになり、今度は岩手の山奥の寺に避難した。その後妹も来て、私たちは兄弟は、そこで終戦を迎えた。
疎開先に向かう途中の思い出話だが、私達は弁当に握り飯を持たされていた。その握り飯はみんな腐ってしまい、泣く泣くみんなで、列車の窓から川に向かって捨てたのだ。今でも忘れない。多くの魚も飢えていたようで、水面に浮かんだ米をパクパクと食べていた。
終戦後、疎開先いた私達生徒は皆、一緒に東京に向かった。そして上野駅に着いたのだが、生徒のうちの一人が、そこで行方不明になった。そして長いこと待っても、最後まで見つからず、教師も諦め、私たちはその場を去った。その子の父親は軍人で、後で戦死したと聞いた。彼は少佐か大佐で、一度、疎開先に慰問に来てくれた。その時彼は持っていた軍刀を抜いて見せてくれ、私達子供は皆んな感動したものだった。後から考えると、馬鹿な話だ。
そしてやっと最寄りの荏原町駅に着いた時は辺り一面完全な焼け野原だった。しかし自分の家は運良く残っていた。目の前の家までは焼け尽くされていたが、自宅から南側の住宅は焼けなかったのだ。
私の父は若くなかったから、戦争に徴兵されることはなかった。当時の片倉生命という保険会社で働いていた。
その当時から、日本の復興は早かった。戦後、どのくらい経っただろうか。闇市なんかができて、ほったて小屋から始まって、あっという間に繁華街が戻ってきた。
No transcript available for this episode.